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上杉神社に行ったら「おしょうしなガイド」に会ったんだっす!第2部

上杉神社周辺の無料案内 (おしょうしなガイド)の続きだっす。

上杉鷹山公の有名なお言葉です。

 

根津

アメリカの第35代大統領ジョンFケネディが就任された時に、日本の新聞記者から「あなたは日本人で誰を尊敬しますか?」と聞かれた そうです。そうしたらケネディ大統領は即座に上杉鷹山公と答えられた。なぜ知っておられたか?それは明治時代に英語でかかれた「代表的日本人」と言う本を読んでおられたんです。それを書いた人は「内村鑑三(キリスト教思想家・文学者)」です。その本の中で5人の日本人を紹介しています。一人目が西郷隆盛 二人目は二宮金次郎 三人目に上杉鷹山公 そして四人目は中江藤樹 五人目は日蓮上人です。残念ながらその時に同席していた日本の新聞記者たちは誰も上杉鷹山公のことを知りませんでした。去年11月にキャロラインケネディ大使が、東京での講演会で「私の父は上杉鷹山公を尊敬していた。」と言われました。それで米沢市や山形県では是非キャロラインケネディ大使を米沢へ招こうと運動した結果、今年の9月30日にここへ来られました。そして、伝国の杜ホールで挨拶され、鷹山公の像を指差されて「私の父ジョンFケネディは上杉鷹山公をものすごく敬愛していました。」と言われたんですよ。

 

それでは「上杉神社」を正面に見て右側においでください。

 根津

ここは、皆さん素通りされてしまうのですが、是非、見ていってほしいところです。「松岬神社」といいます。社号は米沢城の別称「松岬城」に由来しています。上杉神社には建立当初は上杉謙信公と上杉鷹山公が祀られていましたが、明治35年に「別格官幣社」(べっかくかんぺいしゃ)となりました。現在はもうありませんが、当時は神社には位(くらい)がありました。国の発展に尽くした人や皇室の人を祀った神社が別格官幣社です。全国で28箇所ありました。そのために、米沢藩や地元には貢献した鷹山公ですが、国の為には貢献しておらなかったので、明治35年に鷹山公を分祀して「松岬神社」と称し、大正元年に社殿を建立しました。その後、米沢藩初代藩主上杉景勝公 景勝公の重臣直江兼続 鷹山公の師、細井平州 鷹山公の藩政改革を補佐した功臣竹俣当綱(たけのまたまさつな)と莅戸善政(のぞきよしまさ)を合祀して祭神は六柱となっています。

それでは、足もお疲れになったでしょうからこちらへ腰をかけて説明を聞いてください。(松岬神社の境内にはあずまやがあります。)

 根津

上杉家は越後ですよね、上杉謙信公は49歳で亡くなって、生涯独身だったので謙信公の姉の子供である景勝公が後を継ぎます。1598年豊臣秀吉の命により越後から会津に移ります。その後、関が原の戦いにおいて豊臣方について戦ったのですが負けてしまいました。通常であれば上杉家は処罰処刑を受けるところですが、天下の名門上杉家を潰すわけにはいかない。ただし、会津120万石は没収され1601年に人口6千人のこんな小さな米沢へ3万人が移りました。3万人をどうやって生活させるか?その都市計画をしたのが直江兼続です。

 根津

上杉鷹山公は10歳で養子にはいられましたが、その後、前の殿様に男の子が続々お生まれになりました。そこで、鷹山公は前のお殿様の子供が成長するのを待って35歳で隠居して世代交代しました。仕事が嫌になったとか財政改革がうまくいかなくて世代交代したのではありませんよ。ひとつは自分が婿養子であるという負い目があったこと。もうひとつは参勤交代やら外交関係の仕事はまかせて自分は藩の財政改革に専念したということです。そこで藩主をやめて交代するときに藩主としての心得を教えました。それがそこの石碑に書かれています。藩主の心得三か条「伝国の辞」といいます。これは鷹山公の直筆なんですよ。

 根津

達筆で読めないでしょう!こちらを見てください。

 根津

鷹山公の名前は治憲(はるのり)です。53歳になってから鷹山と名乗ったんです。

鷹山公が35歳で前の殿様に生まれたのが治広(はるひろ)公で22歳、殿様になるにあたっての心得を教えられたのですが、この治広公がまた次の殿様にこの心得三か条を教えたのでした。だから伝える言葉「伝国の辞」と言われるようになったんです。

それでは、お堀を渡って「上杉神社」の方へまいりましょう。

 

右側ののぼり旗は「毘沙門天」の毘の文字

左側ののぼり旗は「龍」勝鬨の旗です。

上杉謙信公の像です。 

根津

普通の装束と違うでしょう?!どこが違うかわかりますか?

首から上が位の高いお坊さんの格好で首から下が武将の格好なんです。

これが上杉神社です。

 先ほども申し上げましたが「別格官幣社」でありました。

根津

 1578年戦国の名将上杉謙信公が亡くなって、春日山城の不識庵に仏式を以って鎮祭されました。その後、二代景勝公が会津を経て米沢に移封されるに当り、祠堂を米沢城内に移しました。明治になって祠堂のまま神祭に改め、米沢藩中興の名君鷹山公を合祀して「上杉神社」と称しました。先ほど申し上げましたが、その後、明治35年に鷹山公は松岬神社へ分祀されましたので、上杉謙信公だけを祀っています。

また、この神殿は、大正8年の大火後、大正12年に米沢出身の伊藤忠太博士の設計により建てられたものです。伊藤忠太博士は、本願寺 平安神宮 明治神宮 新潟県の弥彦神社 高畠町の亀岡文殊などを建てられています。

おきたま新聞

根津副会長本当におしょうしなっす。こんなに詳しく教ぇてもらって、なんだがすごく頭が良くなったみたいだっす~。おきたま新聞を見ておごやった人で興味がある人は下記の連絡先に予約申し込みしてみでおごえなっす~。

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「おしょうしなガイドの会」

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